きれいごとでいこう!

経営ジャーナリスト・中小企業診断士の瀬戸川礼子です。いい会社のいい話から私的なつぶやきまで、公私をつづります。

謙遜しすぎは傲慢である説


こんにちは。

今日のテーマは、
謙遜しすぎは傲慢である説
です。

謙虚なんだけど謙遜しすぎない、
絶妙なバランス感覚の経営者の方々から、

「謙遜しすぎは傲慢である説」を
聞くことがあります。


具体的には、
会議の司会や、何かのリーダーや、
はたまた昇進のときなど、
ある役割を頼んだとき、
「自分にそんな資格があるのか?」
考える人がいると。
それは一見、謙虚そうだけれど、
「そんな資格があるかどうか」は
他者が決めることであり、
自分で決めるというのは、
自分自身に対しても、
他者に対しても傲慢であると言うのです。
人をこき使う経営者たちではないので、
素直に受け入れて成長してほしいという
願いも込められていると思います。
なるほどです。

~  ~  ~

またこういう場合も、
謙遜しすぎは傲慢である説になると思います。
先日 twitterで私が、
ある人を「明るくて賢い人」と書いたら、
「人を賢いと判断するのは不遜である」
というようなリツイートがあったんです。
それで私は、
「賢い」というのは才知・思慮・分別などが
優れている様のことであり、
上から目線ではないと書いたのですが、

リツーイトした人は、日ごろから、
「人が優れているかを評価する主体に
 自分がなりうるかと
考えていた」ために
反応したとコメントが来ました。

私はそこまで暇ではないので
もうやりとりはしませんでしたが、
これって、謙遜しすぎは傲慢である説
に当てはまるのでは?

謙遜しすぎると表現が狭まり、
自分ができない表現や
自分とは違う表現をした人を疎み、
リツイートの形で批判し、
反論されると自分の謙虚さを持ち出して
さらに反論するという論法なのです。

「人が優れているかを評価する主体に自分がなりうるか」
というのなら、
「賢い」だけではなく、
「あの人は優しい」
「立派な人だ」
「努力家だ」などなど、
あらゆる形容詞を使えなくなります。
「私は人を優しいと評価する主体になりうるだろうか」
「私は人を立派だと評価する主体になりうるだろうか」
いちいち悩まなきゃなりません。
そして、「あの人は優しい」「立派だ」と表現した人を
「人の優しさや立派さを判断するのは不遜である」
と否定することになります。
要するに、
「人を評価する主体になれるだろうか」
と謙虚ぶる本人が人を評価しているわけで、
わりと傲慢(笑)。

謙遜しすぎは傲慢である説

気を付けたいですね。
本日の担当は(お気づきでしょうが)デビルレイコでした。
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またの名を経営ジャーナリスト・中小企業診断士
瀬戸川礼子でした。
普段はこちら↓ ご安心ください(笑)

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