先週末の12月14日、四谷の二コラ・バレで行われた
批評家・随筆家でクリスチャンでもある若松英輔さんの
講演「教皇フランシスコの残したもの」に行ってきました。
私はクリスチャンではありませんが、
先日、来日された教皇の言動には胸打たれるものがあり、
詳しく話が聞きたいと思ったのです。
想像できないほどの教皇の深い想い、
それを伝える若松さんの命がふるえる様を見て、
思わず涙があふれました。
乾いている人に水を運ぶように、
今日はこのブログで
「水=言葉」を運びたいと思います。
下記は、講演で心に残った話の抜粋です。
☆今、私たちは暖かいところにいます。
しかし、この瞬間も外で夜を過ごす人たちがいます。
そのことを忘れていい人は一人もいません。
☆教皇は原稿を見ながら語りますが、
その理由はすべて公式に記録されるからです。
一方、教皇は頭で語っているのではありません。
頭で語っていない言葉を頭に入れようとしても入りません。
心で語っている言葉は、心で受け止めるものです。
☆私は皆さんにも言葉を運ぶ人になってほしい。
「何々すべきだ」という「べき論」ではなく、
「私たちはこのままでいいのだろうか」という
「問い」を運べる人になってほしい。
☆私(若松さん)は記者として、
教皇の訪問先を巡りましたが、
とても全部は回れませんでした。
教皇は労働基準法に反するほどの(笑)、
精力的な働きぶりだったのです。
☆長崎での教皇の祈る姿を見たでしょう?
あの「祈る姿」にこそ、
言葉の背景となる信念や生き方が現れていました。
☆その祈りとは、亡き者に誠実を尽くすことです。
教皇フランシスコは何をしに日本に来たのか。
歴史に光を当てに来たのです。
未来をより良くするならば、
「過去との関係を結び直すことが必要です」と。
「誠実さによって知られる人になってください」
と、教皇は言われます。
自分がそうなるのも良いですが、
人知れず、僕のように講演もせず(笑)、本も出さず、
しかし誠実に生きている人を
発見できる人になりましょう。
これは、宗教や文化を問わず、
万人に対して良いことを指します。
例えば、気候変動を改善することは共通善ですし、
弱い人がこれ以上苦しまないことも共通善です。
ここから先は、教皇というよりも
若松さんの想いだと理解しました。
(報道や噂を鵜呑みにせず)慎重であれば、
人を信用するとはどういうことかが同時にわかります。
ペットボトルを使わないことも大事ですが、
それ以上に、私たちは、
経済の豊かさではない真の豊かさを考えるべきです。
大きな家を建てている人に尊敬の眼差しを向けるのではなく、
みなが目線を変える必要があります。
価値の有り様を変える必要があるのです。
☆命が苦しんでいる人を
見つけられる目を持ちましょう。
目から流れる涙ではなく、
命から流れる涙を見られる人に。
☆いじめはいけません。
その人が本当の自分になる力を奪うからです。
自尊心や向上心を傷つけることは、
その人が本来持つ力を奪うことになります。
つまり、いじめも命の問題なのです。
(※ ついでに書かせてもらうと、
ストーカーも本当にしてはいけないことです。
構造はいじめと同じです。
相手の嫌がる気持ちを全く考慮せず、
一方的に自分の気持ちで突っ走る。
非常に身勝手な迷惑行為です)。
人のための組織と、どちらがよいでしょうか。
私は後者だと思います。
人がいれば、組織を作り直すことができるからです。
「孤独」は、人生の宝石と言っていいほど
人にとって大切なものです。
大事な人に手紙を書くとか、
自分に向き合うなどは、孤独のときにやるものです。
しかし、「孤立」はいけません。孤立してしまうと、
孤独の時に行う力が持てなくなります。
孤立は、孤独を奪うのです。
住んでいる人のための国です。
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「教皇」とはラテン語で、
「橋をかける人」という意味だそうです。
私は橋をかけているだろうか?
それは共通善だろうか?
そんな問いを自分に投げかけ続けたいと思います。
瀬戸川礼子でした。