月に一回、通っている老子講座で、
「我れ独り」という言葉が6回も出てくる文に出合いました。
老子はどれだけ孤独だったのかな。
老子:異俗第20
講座で先生は言われました。
「人間の原点は独りです。
独りで生まれて独りで死ぬ“絶対的孤独”がある。
これは悪いことではありません。
独りを知る人は、目の前の人を得難く思い、
一緒にいる時を大切にしようとする。
孤独の先に大切なものがある。
時には独りで真理に対峙してみるといいんじゃないですか」。
それで私も思いを巡らせてみました。
すると、孤独には2種類あると思い至り、
強要的孤独、主体的孤独と名付けました。
「強要的孤独」は、 望んでいないのに孤独になってしまった状態。
いま、世間でいう孤独はほとんどこちらです。
だから「孤独=悪」と考える人が多いです。
一方、「主体的孤独」は、 自分の意思で、
必要なときに独りの時間を尊ぶ状態。
主体的孤独は人間の成長に不可欠ですが、
現代社会で主体的孤独を理解する人は少ないようです。
そんな考えを先生に聞いてもらったら、こう言われました。
「強要的孤独も主体的孤独も、結局は同じなんだよ」と。
理由はこうです。
「孤独が嫌だと口で言っている人は確かにいる。
でも、そういう境遇がある程度、続いているとしたら、
心のどこかでそれを望んでいる部分があるんだよ。
本人も気づかない深いところで、そうなろうとしているんだ。
だって、孤独にならない方法なんていくらでもあるんだから」
先生は、孤独も絶望も体験しているから説得力があります。
「ああそうだった」って私は思いました。
「自分の世界は、自分の心がつくっている」。
そう分かっていたはずなのに、実は分かっていなかった。
ということが分かりました。
こんな風に、一つの物事を独りで考えて、
言葉にしてみて、 さらに師や友に伝えて、気付きや解説をもらう。
そんな行為が、 自分の考えをもっと深めてくれるんだなってことも分かりました。
人はみんな、絶対的孤独の中で生きている。
でも、それは悪いことじゃない。
自発的に動く限り、孤独は味方にもなるし、その人の魅力にもなるから。
独りも楽しい、二人でいるのも楽しい、みんなでいるのも楽しい。
そういう人生っていいな。
YouTube動画にしました。