きれいごとでいこう!

経営ジャーナリスト・中小企業診断士の瀬戸川礼子です。いい会社のいい話から私的なつぶやきまで、公私をつづります。

茶化さない世界でしか生まれないもの

 
茶化す=からかう、冗談のように扱うこと。

お笑い第7世代の今、あらゆるメディアで芸人さんが大活躍だ。
笑うって素晴らしいこと。
笑わせるのって難しいこと。
人気の人たちからは、瞬発力や想像力や思いやりも感じられる。
いろいろな人間力が必要な仕事なんじゃないだろうか。
そんな笑いに生きる芸人さんを、私はすごいなあと感心してみている。

と同時に、素人がやたら真似をするのは危険だな、とも思う。

茶化し過ぎると会話が深まらない

 

芸人さんのあの可笑しさは、
ボケと突っ込みの「茶化し合い」で生まれることが多いけれど、
素人が日常で茶化しを使い過ぎると、会話がぜんぜん深まらないのだ。

会話が深まらないということは、
ほとんどの場合、関係性も深まらない。

ただ、茶化しは親しみの表れでもあるから、ないのはつまらない。
いじめで使うのは論外としても、
茶化しが人間関係を滑らかにする作用はあって、
私もよく茶化したり茶化されたりして面白がっている。

でもやっぱり、使い過ぎには要注意だ。

もともとの関係性はどうなのかも重要。
素人は、それを使わないほうがよい場面も多い。​


茶化したがる人たち

 

以前、ある集まりで子ども時代の話になった。
シニア層が多かったから、昭和の昔話に花が咲き、
いつもは寡黙な人も珍しく喋り出した。
母親の話だ。

普段、あまり接点のない寡黙氏の一面が知れると思い、
私は少し離れた席から、興味津々で身を乗り出した。

寡黙氏の母はかなりの高齢になり、もう台所には立たないけれど、
昔は料理上手だったという。
語る表情は、見たこともなく柔和で、母への愛情が伝わってきた。
その母が運動会のお弁当に入れてくれたのは――、

ここで誰かが話を茶化し、わっと笑いが起きて、話は中断。
その間に、場の流れは明後日の方向へと進路を変え、
全然関係のない話と合流。寡黙氏の話はせき止められてしまった。

お弁当に何を入れてくれたかは分からずじまいだし、
寡黙氏の内面に触れられるチャンスは奪われてしまった。
寡黙氏は、あれ以来、もっと寡黙になったかもしれない。

似たようなことが、どの世代でも起きているんじゃないだろうか。

笑いが起きなくたって楽しい


「笑いが起きた=盛り上がった=よい会だ」
このような式が世間にはびこっている気がする。

確かに、笑いが起きたら楽しい。
けれど、笑いが起きなくたって楽しい。

あのとき、表層的な笑いによって、
深層にあった純粋なものは、完全に出口を見失ってしまった。


お笑い芸人さんは、感動ではなく笑いで勝負する世界の住人だから、
いい話をしようものなら、
「ここは編集でカットします」と茶化されるのが定番だ。
言う方も言われる方も計算済みで、この常套句でまた笑いが取れる。

でも、私たち素人は、笑いの世界を覗く側であって、住人じゃない。
そこは混同しないほうがいいと思っている。

ここでは誰も茶化さない


2019年7月。仲間6人と、北海道のブナの森へ出かけた。
「森のリトリート」に参加するためだ。

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日中は、森の中で散り散りになって自分自身と対話する。
夕方になったら、一緒に野原へ降りて、焚火を起こし、
ゆらゆらと揺れる炎をみんなで囲んで、
日中、心に浮かんだ思いを語り合った。

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私は怖がりな一面をさらけ出した。
辛かった時の話を打ち明ける人、
親への複雑な思いをつむぐ人。

普段は容易に言わない「実はね」が
ぽつりぽつりと吐露されていった。

少しずつ夜のとばりが降りて、炎は鮮やかになっていく。

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それぞれが自分の内面をさらけ出すほどに、
「そう感じるんだね」、「私もそういうところあるよ」、
「わかるよ」、「よく話してくれたね」と、
心の根っ子でうなづき合った。

森の草木は、見えない土の中で繋がって連携していると聞く。
まるでそんな感じ。
とても豊かだった。

その豊かさに欠かせなかったのは、
「ここでは誰も茶化さない」という空気じゃなかったかと思う。

 

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面白いことを言わなくてもいい

そこには、茶化さない世界でしか生まれないものがあった。

Google先生風にいえば、「心理的安全性」だ。
それによって、人間関係は深みを増した。

心が安全でいられるということは、
無防備でいていいよ、ということだ。

無防備でいていいよ、ということは、
戦う準備をする必要はない、ということだ。

誰かよりも面白いことを言わなくていい。
誰かよりも気の利いたことを言わなくていい。
話にオチがなくてもいい。
それを茶化す人はいない、ということだ。

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森への旅は、終始、真面目ってわけじゃなかった。
6人の女子旅である。コテージではふざけ合い、
ボケと突っ込みで応酬した。

けれど、肝心な場面では誰もそれをやらなかった。
だから、深いところでつながった、という実感を持てた。


茶化すことそのものは悪くない。
ただ、やみくもにやるものじゃない。

どんなに長く共にいて、何度笑い合っていても、
心の根っ子までたどりつかない関係ならば
強風で簡単に吹き飛ばされてしまうのではないだろうか。


「つながっている」と思える関係性は、
茶化さない世界でしか生まれないのではないかと思うのだ。

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新たな話を加えて、分かりやすくYouTube動画にしました。こちら。画像7

 

経営ジャーナリスト・中小企業診断士の瀬戸川礼子でした。