コロナ禍で、自分について分かったことの一つは、
「幸せのハードルが低く、不幸のハードルが高い」
ということです。
つまり、幸せに敏感で、不幸に鈍感。
前からそんな気がしていたけれども、
ほんとにそうだったね、と自分で思いました。
理由はいろいろあると分かっていて、
そのうち一つは、
不幸にどっぷりつかった数年間があるからです。
あれに比べたら、ほかの困難なんてそれ以下だし、
あれから抜け出せたんだから、
ほとんどのことは抜け出せる、と思える。
なのでね。
もしも、いま不幸にどっぷりつかっている人がいたとしたら、
いまは辛くて終わりが見えないでしょうけれど、
これから先が強いと思うんです。
どっぷりの時に、私が体験で得たのは、
そういうときに人に優しくすると、
ちょっと、幸せを感じられるってことです。
ちょっと、ほんとちょっとだけ強くなれるってことです。
立派なことじゃなくていいんです。
電車で赤ちゃんが泣いてお母さんが困っていたら、
お母さんが私を見ていなくても微笑みかけるとか、
そういう小さなことでいいの。
自分が困っているときは、困っている人に目がいくから、
そういう人に対して、
自分にできることをちょっとしてあげるんです。
どうせ何をやっても、苦しいのは変わらない気がするじゃないですか。
その開き直り力を、優しいことに使ってみるんです。
「それは偽善じゃないか」と思う、そこのあなた。
こういうときは偽善でよろしいんです。
もし笑顔が偽善でも、さっきの電車のお母さんは、
誰かににらまれるよりも、真顔で見られるよりも、
微笑みを向けてもらったほうが救われるでしょう?
そのお母さんが周りを見ていなくても
周りから発せられる「雰囲気」って伝わるから。
偽善、上等です。
自分にとっても、たとえ偽善でも優しくしたら
それってたぶん、弱々しくなっている自分の心の炎に、
ふ~って、小さな風を送ることになると思います。
小さな風を送って、炎を少し大きくするのです。
振り返ると、
その繰り返しって大事だったなと、思います。
不幸にどっぷりな経験を持つと、
いま私が書いているブログのように、
「経験者は語る」もできます(笑)。
その身の置き所のなさ、
ひとときの安心感もない日々、
絶え間なく襲う悲しみ、
それでも生きなきゃならない辛さ。
あるある。
でもいつか、それが底力に変わるときがきます。
そのときを、自分の目で見届けましょうよ。
瀬戸川礼子でした。
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