独立したての2000年ごろ、私はこれまで交換した名刺の中で、
最も切ない名刺を受け取りました。
ある食事会で年配の男性から渡されたそれに、
「○○ホテル 総支配人」とありました。
以前、取材をしたことがあったので、その旨を伝えたところ、
その人は罰が悪そうに言ったのです。
「定年退職したんで、2年前の名刺なんですけどね」
困ったように笑うその顔を、私は見ていられませんでした。
この方は、60年以上も生きてきたのに、
肩書きのない自分には価値がないと無意識に感じているんだ。
だから、過去の栄光にしがみついて昔の名刺を配り続けている。
なんて切ないんだろう、と…。
もっと言うと、みじめだな…と思ってしまった。
この経験は、私にとって一つの反面教師となりました。
切ない名刺を久しぶりに思い出したのは、
まったく逆の人生を歩かれている
ヨリタ歯科クリニックの小倉巌さんに出会ったからです。 http://www.yorita.jp/
小倉さんは、管理職を務めた前職を定年後、
「働けるだけでうれしい」と考え、
ヨリタ歯科で患者さんの自転車の出し入れをする
「おっちゃん」になりました。2008年のことです。
ある日、院長の寄田先生が電車に乗っていると
「ヨリタ歯科ってすごい」と隣の女性たちが話していたそうです。
思わず「何がすごいんですか」と身元を隠して尋ねると、
そこはかとなく期待した医療のことではなく(≧∀≦)、
小倉さんのことだったそうです。
誰がどの自転車でどの方向から来たか、
おっちゃんは記憶していて、何も言わなくても、
帰る方角に車輪を向けて出してくれる、と言うのです。
いつも笑顔で親切なおっちゃんは、
いつの間にか患者さんのアイドルになっていました。
小さな子どもたちから、思春期の女の子から、
たくさんのラブレターがおっちゃんのもとに届きます。
管理職のエライ立場を経験していても、
「自転車置き場のおっちゃんになることに何の抵抗もなかった」
と小倉さん。
むしろ、
・単なる自転車の受け渡しロボットではないということ、
・ヨリタ歯科で一番最初に患者さんが出会うのは自分であるということ、
・自分の言動で「さすがヨリタ歯科」と思ってもらいたいということ、
このように、誇りを持って働かれました。 .
2014年に、ヨリタ歯科が大きな店舗に移ったことで、
自転車管理の仕事は不要になりました。
おっちゃんはどうなるの?
おっちゃんがいなくなるのはいや。
患者さんたちから心配の声が数々寄せられました。
いま、小倉さんはヨリタ歯科のフロアで
スマイルサポーター(コンシェルジュ)として働かれています。
肩書がその人の価値を表すわけではない。
人間力があればたくさんの人に必要とされ、愛されるということを
小倉さんは身を持って教えてくれました。
経営ジャーナリストの瀬戸川礼子でした。